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慶長遣欧使節

慶長遣欧使節とは人物紹介慶長遣欧使節関連年表

慶長遣欧使節とは?

 今から約400年前の1613年(慶長18年)、仙台藩主伊達政宗が、仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した使節です。
 使節に選ばれた家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡りました。メキシコを経てイスパニアに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しましたが、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができず、7年後の1620年、常長は帰仙しました。

使節に支倉常長が選ばれたのはなぜ?

 文禄の役の際の外洋渡航や異国滞在の経験が尊重され、鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力があると評価されたためと言われていますが、失敗したときの影響を考えて上級の家臣ではない常長が選ばれたとの説もあります。
 いずれにしても史料が失われているため、その真相は分かっていません。

慶長使節の旅

 1613年10月28日、支倉常長ら一行180余人を乗せた慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ」は、月浦(※雄勝との説もある)から遥かローマを目指し出帆しました。

 一行を乗せたサン・ファン・バウティスタは、90日間の航海の後、当時イスパニア領だったメキシコのアカプルコに入港しました。ここから先、常長一行はサン・ファン・デ・ウルーワ、ハバナ、サンルーカル、スペインの首都マドリードへ旅を続け、ここでイスパニア国王フェリーペ3世に謁見し、いよいよローマ法王パウロ5世との謁見の時を待ちます。そして1615年11月3日、支倉常長はついにヴァチカン宮殿でローマ法王と謁見し、宣教師派遣とイスパニア領国との通商を申し込みました。

支倉常長像
「支倉常長像」仙台市博物館所蔵

 常長はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族に列せられましたが、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したものの、通商についてはイスパニア国王に一任しただけでした。

 再びイスパニアに戻った常長でしたが、長旅の疲れで健康を害した上、旅費の欠乏も重なっていました。

 それでも常長は国王、法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し、使命の実現に努力しましたが、返答を得られないままやむなく帰路につきました。

 メキシコまで戻った常長は、そこへ迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタに乗りフィリピンのマニラに到着後、マニラでスペイン艦隊に船を買収されたので長崎まで別の船に乗って、1620年9月22日、ようやく仙台にたどり着いたのでした。

 しかし、帰国した常長を待ち受けていたのは、徳川幕府の禁教令でした。常長は表舞台に立つことなく、帰国して2年後の1622年7月1日病没したと伝えられています。

サン・ファン・バウティスタ航海図
サン・ファン・バウティスタ航海図

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