1617年3月13日付けメキシコ発新イスパニア総督よりスペイン国王への書簡の中に登場するこの船名は、後に使節船の建造に携わることとなったスペイン人ビスカイノ一行と伊達政宗の江戸市中での出会いの日(1611.6.24)が、洗礼者聖ヨハネの祭日に当たっていたことから命名されたものと推定されます。
伊達政宗はスペイン人ビスカイノと幕府船手奉行の指導、協力を得てサン・ファン・バウティスタを建造しました。造船に必要な材木は、すべて仙台藩領から切り出し、外板や甲板に使用しました。
杉板は気仙、東山(岩手県東磐井地方)方面から、曲木は片浜通り(気仙沼地方)や磐井・江刺からそれぞれ伐採し、北上川を利用して運ばれたと言われています。
シピオーネ・アマチ『伊達政宗遣使録』によれば大工800人、鍛冶700人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されたとあります。
復元船の主要項目 | |||
---|---|---|---|
全 長 | 55.35m | 深 さ | 4.55m |
船体長 | 47.10m | 吃 水 | 約3.80m |
垂線間長 (長18間) | 34.28m | 高 さ | 48.80m |
竜骨長 | 26.06m | メインマストの長さ (帆柱16間3尺) | 32.43m |
最大幅 | 11.25m | フォアマスト (高14間1尺5寸) | 28.05m |
型幅(横5間半) | 10.91m | ミズンマスト (弥帆柱9間1尺5寸) | 18.19m |
※カッコ内の表記は、「貞山公治家記録」による
※当時の仙台藩における1間は六尺五寸(約1.97m)
1990年、慶長遣欧使節ら郷土の先人の偉業を後世に伝えるため、使節のシンボルであるサン・ファン・バウティスタの復元に向けた県民運動が始まりました。きっかけとなったのは、地域活性化懇談会と文化の波・文化の風起こし懇談会の両懇談会から、復元への提言がなされたことです。
はじめに慶長遣欧使節船復元準備会が設立され、復元・ 利活用・資金の3専門部会が組織されました。続いて、限られた現存資料や16・17世紀のヨーロッパの船型等を解析したうえで設計図がつくられました。復元船は、基本方針 「1木造船とする、2原則として原寸大とする、3石巻地域の造船所で建造する、4宮城県内の船大工を中心に建造する」に基づいて建造が進められました。復元船船体の建造費15億円のうち5億円は、宮城県民からの募金により集められたものです。
そして、慶長遣欧使節の月浦出帆380年にあたる1993年に、復元船サン・ファン・バウティスタは進水しました。 この復元船は、県民共有の偉大な文化遺産であるとともに、宮城県民の国際性、先進性、そしてチャレンジ精神を世界に発信しています。
復元船の船体は、キール(竜骨)に肋骨材110本を並べ、 外板を張っています。船体の断面は丸みを帯びており、波の衝撃に強くなっています。キールは26.06mで、ベイマツの角材を使っています。肋骨材は宮城県志津川町(現南三 陸町)産のマツ1000本を切り、2本の角材をボルトと釘で接合したものです。外板は、牡鹿半島のスギ1300本を伐採し、最大9センチ厚の板を蒸して曲げたものです。船全体で使う木材は2239立方m。約50坪の住宅64棟分に相当します。
復元船は、船尾楼・船きょう楼甲板、上層の遮浪甲板、中層の上甲板、下層の船艙と5層構造(見られるのは4層)になっています。遮浪甲板前部には乗組員の食事の調理をおこなうかまどがあり、後部には船長の部屋や操舵室があります。上甲板は飛び上がると頭を打ちそうになるほど天井が低くなっています。上甲板には、いかりを上げたりするキャプスタン(手押し式巻き上げ機)が設けられており、その前部には、斜めに突き出したマスト、バウスプリットが固定されています。その素材には長さ28m、直径50~80cmのベイマツを使用しています。船艙は予備の帆、ロープ類、樽につめた食材や水などが積んであります。また、船艙の底にはおもりを大量に詰め船を安定させています。その他船体の強度を高める工夫として、ケヤキの根曲材を天井と内板にわたって打ちつけてあります。
マスト3本のうち最も高いのが、中央のメインマストです。「貞山公治家記録」に「帆柱十六間三尺、松ノ木ナリ」とあり、当時の一間を六尺五寸とすると、32.43mになります。 材質がマツなのは、粘りがあり風に強いからです。
メインマストは船艙のキールに固定します。復元船では上甲板の辺りが一番太く、直径90cmです。頂部からさらに、 2本目のマスト、その上にフラッグポールを継ぎ、全体で 48.80mになります。材料はベイマツを使っています。
復元船図面
船尾楼甲板には、日本式の支倉常長の部屋と西洋式のビスカイノの部屋が左右に並んであります。二人の生活様式の違いが、その道具類からも感じられます。また、小さなベッドに驚かされます。
30分毎にこの鐘を何度か打つことで、当直の交替を告げるなど勤務時間を乗組員に知らせました。
船長であるルイス・ソテロの部屋には、4体の人形が置かれ、航海中の重要会議の場面が設定されています。
当時使用したであろう様々な航海道具を再現、展示してあります。
船首楼内下部中央付近には厨房があったという想定です。このかまどで、乗組員180余名分の調理をしました。
キャプスタンとは巻き揚げ機のことです。帆船には、いかり、ヤード(帆桁)、大砲など、重量物の揚げ降ろしが日常作業として多くあったためこれらの作業をキャプスタンを用いて行いました。
サン・ファン・バウティスタは軍艦ではありませんでしたが、いざという時のために大砲が積んでありました。
日本人乗組員が談笑しながら食事をしています。船内の食事は干し飯、干し魚、漬物等、保存のきく食物が中心だったと想定しています。
船内での仕事のひとつとして、破れた帆の修理や、交換用の帆を作っていました。日本人水夫がスペイン人水夫に教わりながら帆を縫っています。
船艙には、帆布、食料等様々なものを積んでいました。
船首像は元来、船の守護神で、欧州にはライオン、虎、白熊、鹿、女神などの像があります。サン・ファン・バウティスタでは伊達政宗公が好んだ「阿吽(あうん)の龍」が付けられました。これは瑞鳳殿にも取り入れられたもので、観瀾亭松島博物館にある「阿吽(あうん)の龍」をモデルにしました。
船尾から見る優雅な姿はガレオン船の特徴です。また、船尾には伊達家の紋章である九曜紋が飾られています。