サンファン館

慶長遣欧使節
慶長遣欧使節とは

支倉常長(1571~1622)
支倉常長(1571~1621)

支倉常長は中級程度の身分の仙台藩士でした。その常長がなぜ使節に選ばれたのか分かっていませんが、前に海外へ行った経験があったということや、政宗の身辺に仕えて使い役などをつとめていたことがみとめられたのではないかと思われています。

写真/「支倉常長像」仙台市博物館所蔵

東日本大震災直後の月浦

東日本大震災直後の月浦

夕焼けマスト

伊達政宗と慶長遣欧使節

慶長遣欧使節とは今から約400年前、仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した使節です。
使節に選ばれた家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡りました。常長はメキシコを経てイスパニアに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しました。しかし、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができず、7年後の1620年、帰仙しました。

使節に支倉常長が
選ばれたのはなぜ?

文禄の役の際の外洋渡航や異国滞在の経験や、鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力があると評価されたためと言われていますが、失敗したときの影響を考えて上級の家臣ではない常長が選ばれたとの説もあります。
いずれにしても史料が失われているため、その真相は分かっていません。

仙台藩を襲った慶長大津波

2011年の東日本大震災からちょうど400年前の1611年12月、東日本大震災による大津波と同規模の「慶長大津波」が仙台藩を襲った記録が残されており、震災以後、これまでほとんど注目されなかった慶長大地震と慶長使節の関係が着目されるようになりました。
政宗が徳川家康にしたという報告「駿府記」では、この震災により仙台領だけでも5,000人を超える死者を出したと言われ、仙台藩の正史とされる「貞山公治家記録」では、1,783人の死者を出したと伝えられています。また、使節派遣に重要な役割を担うセバスチャン・ビスカイノは、仙台領三陸沿岸を探索中でしたが、海上で大津波に遭遇した記録を残しています。

使節派遣の意図と仙台藩の復興

この慶長大津波からわずか2週間後、政宗は造船と慶長使節派遣の構想を明らかにし、その2年後、サン・ファン・バウティスタは月浦からヨーロッパへ向かって出帆しました。
このような事実を踏まえ、改めて慶長使節派遣の意面を問い直してみたとき、この計画には大きな災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないか、という新しい解釈が生まれます。
政宗と常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流ももたらしてくれます。そしてそれは復興の基盤になりえます。
私たちが経践した東日本大震災のちょうど400年前、まさに復興の最中に、慶長遣欧使節は大航海時代に打って出たのです。使節を派遣した伊達政宗は、震災によって大きく傷ついた仙台藩を、より良い国に発展させようとしたのではないでしょうか。

関連人物紹介

伊達政宗(1567~1636)
伊達政宗
(1567~1636)

天下取りの野望を抱き、秀吉、家康とわたりあった戦国武将。家康亡き後には、最大の実力者と目されていたが、徳川秀忠に臣従。領国の独自性を保ち、海外貿易の機会をうかがっていた。幕府によるスペイン、メキシコ(ノビスパニア)との交渉の停滞、宣教師ソテロの勧告。政宗はこの機を逃さず、「奥州王」として使節派遣を実現、仙台をメキシコとの貿易拠点にしようと目論む。

支倉常長(1571~1621)
支倉常長
(1571~1621)

600石の知行をもつ仙台藩士。鉄砲、足軽組頭として仕え、文禄の役では朝鮮への航海と異国滞在の経験をもつ。西洋との直接交渉という大役に抜擢されたのは、使節の役割を遂行する能力をもつとともに、万一不成功に終わった場合でも、藩に対する問題が大きくならない人選とみられる。戦国時代を生き、齢40才を超えた侍は、その足で誰も見たことのないはるかな異国の地を旅することとなる。

セバスチャン・ビスカイノ(1551~1615)
セバスチャン・ビスカイノ
(1551~1615)

ロドリーゴへの日本側の厚遇に対し、1611年、来日したスペイン側の答礼使。スペイン艦隊の司令官の経歴をもち、金銀島探索の密命を帯び、三陸沿岸の測量も行う。通訳・交渉役のソテロと行動をともにするが、栄光あるスペイン王国軍人としての態度が災いし、幕府側の反感をかい、ソテロとも対立する。嵐で自船を破損し、不本意ながら政宗の造船に協力する。帰国後は使節に批判的な報告をもたらす。

ルイス・ソテロ(1574~1624)
ルイス・ソテロ
(1574~1624)

セビリア市の貴族出身の宣教師。1603年、イエズス会に対立するフランシスコ会の宣教師として来日。数年のうちに日本語を習得した語学の天才。日本へ漂着した臨時総督ロドリーゴと徳川家康の外交交渉で通訳・交渉役として臨席する。これを契機にスペインの植民地メキシコとの交渉が展開、慶長遣欧使節の派遣につながる。布教区の司教の座を望み、メキシコ貿易の意を持つ政宗に使節派遣を勧める。

商人
商人

伊達政宗の船で、奥州から海外貿易に参画しようと、堺の伊丹宗味ら上方を中心に全国の有力商人が多数乗り込んだ。積み荷は行李、数百個におよんだとある。

仙台藩士
仙台藩士

使節の支倉常長には、今泉令史、松木忠作など「貞山公治家記録」に名前の記されている者11名と数名の足軽、小姓らが随行した。

慶長遣欧使節
サン・ファン・バウティスタの航海と支倉常長の辿った足跡

サン・ファン・バウティスタ航海図
サン・ファン・バウティスタ航海図

慶長使節の旅

1613年10月28日、支倉常長ら一行180余人を乗せた慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ」は、月浦(※雄勝との説もある)から遥かローマを目指し出帆しました。
一行を乗せたサン・ファン・バウティスタは、90日間の航海の後、当時イスパニア領だったメキシコのアカプルコに入港しました。ここから先、常長一行はサン・ファン・デ・ウルーワ、ハバナ、サンルーカル、スペインの首都マドリードへ旅を続け、ここでイスパニア国王フェリーペ3世に謁見し、いよいよローマ法王パウロ5世との謁見の時を待ちます。そして1615年11月3日、支倉常長はついにヴァチカン宮殿でローマ法王と謁見し、宣教師派遣とイスパニア領国との通商を申し込みました。
常長はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族に列せられました

が、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したものの、通商についてはイスパニア国王に一任しただけでした。
再びイスパニアに戻った常長でしたが、長旅の疲れで健康を害した上、旅費の欠乏も重なっていました。
それでも常長は国王、法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し、使命の実現に努力しましたが、返答を得られないままやむなく帰路につきました。
メキシコまで戻った常長は、そこへ迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタに乗りフィリピンのマニラに到着後、マニラでスペイン艦隊に船を買収されたので長崎まで別の船に乗って、1620年9月22日、ようやく仙台にたどり着いたのでした。しかし、帰国した常長を待ち受けていたのは、徳川幕府の禁教令でした。常長は表舞台に立つことなく、帰国して1年後の1621年(※)7月1日病没したと伝えられています。(※1622年の説もあり)

慶長遣欧使節
関連年表

西暦(和暦)支倉六右衛門常長と周辺の人々の動き関連年表
1571年(元亀二年)支倉六右衛門常長誕生(はじめ「与市」、のち「五郎左衛門」。実父常成)1573年 室町幕府滅亡
1577年(天正五年三月)六右衛門、伯父支倉紀伊守時正(1200石)の養子になる
1582年 本能寺の変
1591年(天正十九年六月)六右衛門、葛西・大崎の一揆で伊達政宗が宮崎城を攻める際、政宗の使いを務める
(「貞山公治家記録」には「五郎右衛門」とある)
1592年(文禄元年一月)政宗、朝鮮出陣のため居城の岩出山城を出発
1593年(文禄二年四月)政宗、朝鮮の釡山に着く。六右衛門も戦う
1596年(慶長元年)養父時正に実子が誕生したため、六右衛門、600石を分与される1598年 豊臣秀吉没
1599年(慶長四年)
(十二月)
六右衛門の子常頼(「勘三郎」)誕生
仙台城縄張始め。政宗、「千代」を「仙台」と改める
1603年 江戸幕府開く
1604年(慶長九年八月)
(九月)
(十二月)
政宗、瑞巌寺再建のため、縄張始め
政宗、大崎八幡神社の建造に着手
松島の五大堂が落成
1606年(慶長十一年十二月)政宗の長女五朗八姫、徳川家康の子息松平忠輝に嫁ぐ1605年 徳川秀忠将軍となる
1608年(慶長十三年十月)政宗、六右衛門に下伊沢の小山村(現岩手県奥州市)など
二ヶ所の知行地(知行高600石余り)を与える
1609年 オランダ、平戸に商館設置
1610年(慶長十五年五月)7月
(十月)12月
政宗、江戸から駿府に到着。十余日間滞在、家康に会う
政宗、江戸の屋敷を訪れた将軍徳川秀忠をもてなす
1611年(慶長十六年五月)6月政宗、江戸路上でスペイン人大使ビスカイノと偶然出会う(初めての出会い)
11月政宗、仙台に着いたビスカイノを接見、もてなす
ビスカイノ、塩釡を出港し、三陸沿岸などの測量を始める
(十月)12月慶長三陸地震。航行中のビスカイノ大津波を体験する
ビスカイノ、仙台に帰着。仙台滞在中、不在中の政宗に代わって
重臣から造船やメキシコとの通商を望む構想聞く
ビスカイノ、仙台を出発し、江戸へ
1612年(慶長十七年八月)9月六右衛門の実父常成政宗の命令で切腹か
(十一月)1月政宗、江戸の屋敷にビスカイノ、ソテロを招き、もてなす1612年 江戸幕府最初の禁教令
(十二月)政宗、仙台をたち江戸へ
1613年(慶長十八年三月)政宗、幕府船手奉行の向井将監忠勝に大工派遣の礼状を書く
(四月)ソテロから書状を受けた政宗、遣欧使節の派遣準備が大体整ったことで返書する
江戸を出た政宗、駿府に到着。家康に銀子一千両などを贈る
政宗、駿府を出発し、江戸へ
8月頃江戸で布教や医療の活動をしていたソテロも捕まり、火あぶりの宣告を受ける。
寸前のところで、政宗に助けられる
(八月)政宗、仙台城で「南蛮人阿牟自牟(三浦按針?)」を接見
9月助けられたソテロ、江戸から仙台へ
政宗、南蛮人2人を招いて協議する。向井将監に奉呈書を書く
多数の日本人キリスト教信者らローマ法王あての書状を書く。政宗の後押しを請う
政宗、仙台城の大広間でビスカイノと対面。従者24、5人
(九月)南蛮人「楚天呂(ソテロ)」、仙台城に登城
政宗がローマ法王、スペイン国王などにあてた書状を書く
政宗、将監から書状と黒船(バウティスタ号)のためのお守り札を受け取る
10月支倉六右衛門常長、向井将監の家人ら使節、ソテロ、ビスカイノら
合わせて180人以上がバウティスタ号で仙台藩・牡鹿半島の月浦を出帆
1614年(慶長十九年)1月バウティスタ号、メキシコ太平洋岸のアカプルコ入港
3月使節の先発隊、メキシコ市入り
メキシコ総督、六右衛門ら10人を除き、使節の武器を取り上げるよう命令する
六右衛門らメキシコ市入り
5月六右衛門ら使節、メキシコ市を出発
6月使節、スペイン戦艦に乗ってベラクルス(サン・ファン・デ・ウルーワ)を出港
7月キューバのハバナに着く
8月ハバナを出港
9月六右衛門、スペインのセビリア市あてに洋上で書状を書く
10月使節、スペイン南部のサンルカール・デ・パラメダに入港。セビリアへ
六右衛門、セビリア臨時市議会に臨み、使命を述べる
1614年 大阪冬の陣
11月使節、セビリアを出発
12月使節、スペインの首都マドリードに入る
1615年(慶長二十年)1月六右衛門ら使節、スペイン国王フェリーペ3世に謁見
2月六右衛門、王立跣足派女子修道院付属教会で洗礼を受ける。フェリーペ3世ら臨席
8月使節、マドリードを出発1615年 大阪夏の陣
(元和元年)10月使節、ローマ到着、入市式を行う
11月六右衛門、ソテロらローマ法王パウロ5世に謁見する 六右衛門ら、ローマ市公民権証書を授与される
1616年(元和二年)1月使節、ローマを出発。再びスペインへ1616年 徳川家康没
7月フェリーペ3世、政宗宛てに不十分な返書を書く
1617年(元和三年)4月六右衛門、セビリアでフェリーペ3世に通商の許可を再度願う書状を書く
1618年(元和四年)8月六右衛門、ソテロらメキシコまで戻り、さらにバウティスタ号でフィリピンのマニラに着く
(六月)六右衛門、マニラから息子勘三郎に手紙を書く
1620年(元和六年八月)9月六右衛門ら使節、ソテロをマニラに残し、便船で帰朝 (バウティスタ号はマニラで買収される)
(九月)政宗、フィリピンにいるソテロの扱いについて幕府重臣に指示を求める
1621年(元和七年七月)六右衛門死去=数え年(51)
10月末ソテロ、マニラから薩摩に潜入しようとして捕まり、大村藩の牢に投獄される
(十一月)ソテロ、牢獄から政宗に書状を書く
1623年(元和九年七月)仙台藩の重臣石母田大膳、獄中のソテロに返書を書く1623年 徳川家光将軍となる
(閏八月)長崎奉行、ソテロの件で石母田あてに書状を書く
1624年(寛永元年七月)ソテロ、大村(現長崎県大村市)の放虎原で火刑にされ殉教=(49)
1632年 徳川秀忠没
1634年 長崎に出島築く
1636年(寛永十三年五月)政宗死去=(68)

①年表は支倉家文書、「貞山公治家記録」「大日本資料」「ビスカイノ金銀島探検報告」「ドン・ロドリゴ日本見聞録」「日本奥州国伊達政宗記並使節紀行」「増訂異国日記抄」「仙台藩重臣 石母田家文書」「チマルパインの日記」「日本切支丹宗門史」「ベアト・ルイス・ソテーロ伝」などを基に作成 ②六右衛門は、承応三年(1654年)二月まで生きた説も ③六右衛門の実父常成は、政宗が八月十二日(年不明)付で切腹を命じており、死去した年について諸説がある ④死去当時の年齢は原則として満年齢。

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