慶長遣欧使節とはOVERVIEW
OVERVIEW
慶長遣欧使節とは
慶長遣欧使節とは、江戸時代の初め、仙台藩主伊達政宗がスペイン国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。日本人として初めての貿易交渉使節として、メキシコ(当時のノビスパニア)とヨーロッパに渡った本格的な使節団であり、仙台領内でのキリスト教布教のための宣教師派遣と、メキシコとの直接貿易の実現を目指して計画されました。
17世紀初頭、日本はヨーロッパとの関係のあり方を模索している時代でした。スペインやポルトガルなどとの交易が広がる一方で、キリスト教の受け入れや対外関係をどのように進めるかが大きな課題となっていました。そうした中で伊達政宗は、海外との直接的な関係構築を目指し、自らの領国から使節を派遣しました。
使節は1613年、石巻・月浦を出発し、太平洋を横断してメキシコへ渡り、さらにヨーロッパへと向かう長い旅に出ました。大使を務めた支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに交渉に臨み、スペインで国王フェリペ3世に謁見し、その後ローマで教皇パウロ5世に拝謁しています。
支倉常長の洗礼式にはスペイン国王が臨席し、ローマでは入市式パレードが行われるなど、使節団は各地で特別な待遇をもって迎えられました。伊達政宗はヨーロッパ随一の大国であったスペインと対等な立場での関係構築を目指して交渉を行いました。スペイン側は伊達政宗がキリスト教を受け入れた平和的な国際交流を提案していると受けとめていました。
しかし支倉常長の渡欧中に日本国内ではキリスト教の取締りが強化されるなど状況が変化し、スペイン政府が態度を硬化させたために使節団の目的は実現には至りませんでした。一行は出発から7年後の1620年に帰国し、仙台に戻ってきました。
それでも、日本からヨーロッパへ直接赴いて外交交渉を行うという試みは当時としてはきわめてまれであり、ヨーロッパに日本の存在と外交姿勢を強く印象づけました。
慶長遣欧使節は、日本の国際関係史において大きな意義をもつ出来事とされています。
CHRONOLOGY
慶長遣欧使節の関連年表
支倉常長と周辺
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1571年元亀二年
- 支倉常長(通称:六右衛門)誕生(幼名「与市」、のち「五郎左衛門」。実父は常成)
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1573年
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1577年天正五年三月
- 支倉常長、伯父・支倉紀伊守時正(1200石)の養子となる
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1582年
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1591年天正十九年六月
- 支倉常長、葛西・大崎一揆で伊達政宗の宮崎城攻めに際し、使いを務める(史料「貞山公治家記録」では「五郎右衛門」と記される)
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1592年文禄元年一月
- 伊達政宗、朝鮮出兵のため居城岩出山城を出発
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1593年文禄二年四月
- 伊達政宗、朝鮮・釜山に到着。支倉常長も従軍する
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1596年慶長元年
- 養父・支倉紀伊守時正に実子が誕生したため、支倉常長に知行600石が分与される
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1598年
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1599年慶長四年
- 支倉常長の子・常頼(幼名「勘三郎」)誕生
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1600年
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1600年慶長五年八月
- 支倉常長の実父常成が死去(満年齢61)
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1600年慶長五年十二月
- 伊達政宗、仙台城の縄張を開始。「千代」を「仙台」と改める
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1603年
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1604年慶長九年八月
- 伊達政宗、瑞巌寺再建のため縄張を開始
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1604年慶長九年九月
- 伊達政宗、大崎八幡宮の建造に着手
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1604年慶長九年十二月
- 松島五大堂が落成
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1605年
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1606年慶長十一年十二月
- 伊達政宗の長女八姫、徳川家康の子・松平忠輝に嫁ぐ
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1608年慶長十三年十月
- 伊達政宗、支倉常長に下伊沢小山村(現・岩手県奥州市)など二ヶ所の知行地(知行高600石余り)を与える
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1609年
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1610年7月慶長十五年五月
- 伊達政宗、江戸から駿府に到着。約十日間滞在し、徳川家康に会う
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1610年12月慶長十五年十月
- 伊達政宗、江戸の屋敷を訪れた将軍徳川秀忠をもてなす
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1611年6月慶長十六年五月
- 伊達政宗、江戸でスペイン人大使ビスカイノと偶然出会う(初めての出会い)
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1611年11月
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伊達政宗、仙台に来たビスカイノを接見し、もてなす
ビスカイノ、塩釜を出港し、三陸沿岸の測量を開始
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1611年12月慶長十六年十月
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仙台領内で大地震。航行中のビスカイノ、津波を体験する
ビスカイノ、仙台に帰着。滞在中、不在の伊達政宗に代わり重臣から造船やメキシコとの通商を望む話を聞く
ビスカイノ、仙台を出発し江戸へ向かう
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1612年
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1612年1月慶長十七年十一月
- 伊達政宗、江戸の屋敷にビスカイノとソテロを招き、もてなす
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1612年慶長十七年十二月
- 伊達政宗、仙台を出発し江戸へ向かう
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1613年慶長十八年三月
- 伊達政宗、幕府船手奉行・向井将監忠勝に大工派遣の礼状を書く
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1613年慶長十八年四月
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ソテロから書状を受けた伊達政宗、遣欧使節派遣の準備が整ったとして返書する
伊達政宗、江戸を出発し駿府に到着。徳川家康に銀子一千両などを贈る
伊達政宗、駿府を出発し江戸へ戻る
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1613年8月頃
- 江戸で布教や医療活動を行っていたソテロが捕らえられ、火あぶりを宣告される。寸前で伊達政宗に救われる
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1613年慶長十八年八月
- 伊達政宗、仙台城で南蛮人・阿牟自牟(アンジン)を接見
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1613年9月
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ソテロ、江戸から仙台へ移動
伊達政宗、南蛮人らを招いて協議し、向井将監に書状を送る
日本人キリスト教信者ら、ローマ法王あての書状を作成し、伊達政宗の後押しを請う
伊達政宗、仙台城大広間で南蛮人と対面(従者24〜25人)
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1613年慶長十八年九月
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ソテロ(楚天呂)、仙台城に登城
伊達政宗、ローマ法王・スペイン国王あての書状を書く
伊達政宗、向井将監から書状とサン・ファン・バウティスタ号のお守り札を受け取る
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1613年10月
- 支倉常長、向井将監の家人ら使節、ソテロ、ビスカイノら約180人とともにサン・ファン・バウティスタ号で仙台藩牡鹿半島・月ノ浦を出帆
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1614年
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1614年1月慶長十九年
- サン・ファン・バウティスタ号、メキシコ太平洋岸アカプルコに入港
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1614年3月
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使節先発隊、メキシコ市に入る
メキシコ総督、支倉常長ら10人を除き使節の武器を取り上げるよう命じる
支倉常長ら、メキシコ市に入る
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1614年5月
- 支倉常長ら使節、メキシコ市を出発
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1614年6月
- 使節、スペイン戦艦に乗りベラクルス(サン・ファン・デ・ウルーワ)を出港
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1614年7月
- 使節、キューバ・ハバナに到着
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1614年8月
- 使節、ハバナを出港
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1614年9月
- 支倉常長、スペイン・セビリア市あてに書状を送る
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1614年10月
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使節、スペイン南部サンルカール・デ・バラメダに入港。セビリアへ向かう
支倉常長、セビリア臨時市議会に出席し、使命を述べる
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1614年11月
- 使節、セビリアを出発
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1614年12月
- 使節、スペインの首都マドリードに入る
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1615年
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1615年1月慶長二十年
- 支倉常長ら使節、スペイン国王フェリーペ3世に謁見
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1615年2月
- 支倉常長、王立跣足派女子修道院付属教会で洗礼を受ける(フェリーペ3世ら臨席)
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1615年8月
- 使節、マドリードを出発
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1615年10月元和元年
- 使節、ローマに到着。入市式を行う
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1615年11月
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支倉常長、ソテロとともにローマ法王パウロ5世に謁見
支倉常長ら、ローマ市民権証書を授与される
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1616年
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1616年1月元和二年
- 使節、ローマを出発し再びスペインへ
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1616年7月
- フェリーペ3世、伊達政宗あてに返書を送る
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1617年4月元和三年
- 支倉常長、セビリアでフェリーペ3世に通商許可を求める書状を作成
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1618年8月元和四年
- 支倉常長、ソテロらとメキシコを経てサン・ファン・バウティスタ号でフィリピン・マニラに到着
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1618年元和四年六月
- 支倉常長、マニラから子の勘三郎へ手紙を書く
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1620年9月元和六年八月
- 支倉常長ら使節、ソテロをマニラに残し便船で帰朝(サン・ファン・バウティスタ号はマニラで買収される)
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1620年元和六年九月
- 伊達政宗、フィリピンにいるソテロの扱いについて幕府重臣に指示を求める
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1622年元和八年七月
- 支倉常長が死去(満年齢52)
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1622年10月末
- ソテロ、マニラから薩摩に潜入しようとして捕らえられ、大村藩の牢に投獄される
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1622年元和八年十一月
- ソテロ、獄中から伊達政宗あてに書状を送る
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1623年
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1623年元和九年七月
- 仙台藩重臣・石母田大膳、獄中のソテロに返書を送る
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1623年元和九年閏八月
- 長崎奉行、ソテロの件で石母田あてに書状を送る
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1624年寛永元年七月
- ソテロ、大村(現・長崎県大村市)の放虎原で火あぶりにされ死去(49)
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1632年
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1634年
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1636年寛永十三年五月
- 伊達政宗が死去(68)




