大津波と伊達政宗の黒船TSUNAMI HISTORY
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慶長の大津波と東日本大震災
―歴史と未来をつなぐ物語
館長 平川 新
2011年、東日本大震災とサン・ファン館
2011(平成23)年3月11日、牡鹿半島東南東沖を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。マグニチュード9.0、最大震度7を記録したこの地震は、東日本の太平洋沿岸に甚大な被害をもたらし、巨大な津波が各地を襲いました。
牡鹿半島の付け根に位置するサン・ファン館にも、津波は数回にわたって押し寄せました。最大水位は約8メートルに達し、施設周辺は大きな被害を受けました。ドックに係留されていた復元船サン・ファン・バウティスタ号も激しい波に大きく揺さぶられましたが、係留ロープによって流されず、ドック内にとどまることができました。
しかし、被害は津波だけではありませんでした。震災から約1か月半後の4月下旬、強風によって3本あったマストのうち2本が折れ、復元船はさらに大きな損傷を受けることとなりました。
東日本大震災は、サン・ファン館やその周辺地域に大きな爪痕を残しました。一方で、東北地方の太平洋沿岸がこのような大津波に見舞われたのは、2011年が初めてではありませんでした。
1611年、仙台藩領を襲った大津波
東日本大震災からおよそ400年前の1611(慶長16)年12月2日、東北地方の太平洋沿岸を巨大な津波が襲いました。後に「慶長奥州地震津波」と呼ばれるこの災害です。
仙台藩の記録『貞山公治家記録』には、領内で大地震による津波が発生し、1,783人が溺死したと記されています。当時の沿岸地域が大きな被害を受けたことがうかがえます。
また、この頃、仙台領内の港湾調査を行っていたスペイン人探検家セバスチャン・ビスカイノは、越喜来湾(現在の岩手県大船渡市)で津波を経験しました。『金銀島探険報告』には、巨大な波が村へ押し寄せ、家々や稲わらの山が流される様子が記されており、当時の被害の大きさを今に伝えています。
この大津波が発生したのは、伊達政宗によるサン・ファン・バウティスタ号建造や慶長遣欧使節派遣のわずか2年前のことでした。慶長遣欧使節が計画・実行された時代には、このような大きな災害があったことも確認しておく必要があります。
出典:シアター映像「二つの大津波とサン・ファン・バウティスタ」
伊達政宗の黒船建造から
考える、歴史と未来
伊達政宗の国づくりと慶長遣欧使節
1611(慶長16)年の大津波は、現在の東北地方太平洋沿岸に甚大な被害をもたらしました。仙台藩領でも多くの命が失われ、人々の暮らしや地域社会は大きな打撃を受けたと伝えられています。
伊達政宗はそのような時代の中で、将来を見据えた国づくりを進めました。その象徴ともいえる事業が、サン・ファン・バウティスタ号の建造と慶長遣欧使節の派遣です。
慶長の大津波からほどない時期に、大型洋式帆船を建造し、太平洋を越えてヨーロッパへ使節を送り出したことは注目されます。それは、大きな災害を経験した時代にあっても、政宗が国づくりを着実に進めていたことを示す出来事の一つといえるでしょう。
この事業は、単なる海外派遣にとどまるものではありませんでした。サン・ファン・バウティスタ号の建造には、多くの人々が関わり、さまざまな技術や知識が用いられました。また、海外との交流や交易の可能性を視野に入れた取り組みでもあり、伊達政宗が将来に向けた雄大な構想を抱いていたことをうかがわせます。
歴史から未来を考える
400年以上の時を経て、私たちもまた東日本大震災という大きな災害を経験しました。震災から年月が過ぎた今も、その記憶を風化させることなく語り継ぎ、地域の未来に生かしていくことが求められています。歴史上の出来事と現代の震災を単純に重ね合わせることはできません。
一方で、大きな災害を経験した地域に暮らす私たちにとって、慶長の人々が歩んだ歴史に思いを巡らせることは、未来を考える一つの手がかりになるかもしれません。
サン・ファン館は、慶長遣欧使節という歴史を伝えるとともに、東日本大震災を経験した地域に建つ博物館でもあります。宮城・石巻を訪れた際には、「伊達政宗の黒船」サン・ファン・バウティスタ号とともに、慶長の人々が生きた時代や、今日へと受け継がれる地域の歴史に思いを巡らせていただければ幸いです。




